死と平穏

私は特殊な環境で、特殊な人間関係の中を生きている。

お金にはならないけれど、自分の一生の役目だと漠然と確信を持っている音楽。
その音楽には無くてはならない人。

私の病気のせいか、彼の元々のアイデンティティのせいか
理由は分からないけれど、お互いの存在を必要としながら、
病気の始まった頃から衝突が激しくなった。

もうどうしようも無い袋小路まで追い詰められて

今、動けない私がただひとつ生きるための「希望」として考えていたものが
逆に私を苦しめているようで、何度も捨てるかどうか自問自答し続けている。

30代になったばかりの頃、大好きだった父を亡くし、
それから母と二人、一緒には暮らしていなかったけれど、
無意識に母がいれば大丈夫、と感じていた。

東北の大震災のあと、可愛がっていた猫が突然亡くなり、
その後、母もどんどん病気が悪化し、昨年末に亡くなり、

私は大切なものの死を身近で3度見ているが

そのほかにも小さな頃から死は身近にあった。
小さな頃に大好きだった母の末の妹さんが自殺した時も、子供心に辛かった。
大学の同級生が自殺した時も。
祖母も二人とも死に顔を見た。
母が死ぬ少し前に、可愛がってもらった大好きな叔父が亡くなったときも悲しかった。

私の周りで起きる死。死体、死に顔。葬式。焼き場。
その後で始まる喪失感。

生きているうちに離れることも喪失に違いない。

私はもう大切なものを亡くす勇気が無く、混沌とした苦痛の中を何のあても無く生きる。
起きて、顔を洗って、食べて、排泄して、寝る。

その繰り返しが人間の生活。

なんの意味が無くてもそれを繰り返していれば、終わりが自然に来るのだろう。

夫は苦しむ私を見て、「一緒に死のうか」と言ってくれた。
その時、私はとても幸せで平穏な気持ちになった。

「死」は静かで、平穏をもたらしてくれる。
生きなくていいのだ。毎日起き、食べ、排泄し、食べるために稼ぎ、眠る。
苦痛はいつまでも去らない。意識が無くなるのは寝ている時間だけで。

「死」は私にとって最期の切り札なのだ。
もう亡くすことにおびえなくていい。
平和で静かで、そして共に死んでくれると言ってくれる人。
この世に未練はないと言ってくれる人。
嬉しくて幸せで平和な気持ちになったのは久しぶり。

死は怖く、苦痛に満ちたものだと思っていた。その悲劇的な喪失は
行き続ける者にとって、扱いがたい感情であり、先の見えない苦しみだと思う。

でも本当に死の床に付ける人は幸福なのだろう。
後片付けを生き残る人に任せて。

私は今、遺るもの(猫たち)が心配だから、それを誰に託そうか、とか
財産の始末には管財人が必要だとか
エンディングノートを作らなければ、と思っている。

出来れば、子供のいない私のお金はユニセフなどに寄付したい。
そして猫が幸せな余生を送れるように。

あとは方法だけだ。
夫と一緒なのが心強く、温かい。
二人共、一生懸命生きたから、もう充分。

そして私達が居なくなっても、時がそれを風化し、周りの人は全て忘れていくのだ。
それでいい。
静かで何もない場所へ旅立つこと。

適応出来ない、理解しえない場所にとどまり苦痛を受け続けるよりも、ずっと。